東信商事風雲録

 

                   

                 

 

 


第1回

  

【坂本三郎誕生す】

 

農家の三男坊、将来の夢は植木屋さん

 

 私は、大正13年11月14日に豊島区要町に生まれました。父は坂本信太郎(のぶたろう)という名前で、母はせきといいます。私はその三男ですので三郎と名づけられた訳です。

 

 兄が二人、姉一人、私、そして下に妹三人という七人兄弟の大家族でした。父は質実剛健ながら心優しい性格、母はお嬢様育ちで芯の強い性格で、子どもたちにとっては居心地の良い家庭でした。私は家族の中では盛り上げ役として明るく屈託なく育ちました。振り返ってみれば、、大家族の中でとても恵まれた、幸せな幼年期を過ごせたんだなぁと感謝しております。

 

 坂本家はそもそも、要町や千川付近に畑を持っていた農家でした。現在の社屋は、坂本家の母屋のあった場所に建てられています。家長制度が当たり前の世の中では、長男が家督を継ぐというのが自然でしたので、私は子どもごころにボンヤリと、将来は植木屋さんにでもなろうかと考えておりました。後に不動産会社を創業するとは、夢にも思いませんでした。

 

当時の要町は千川上水を中心として、辺り一帯は畑ばかり。夜ともなれば暗闇に包まれて、隣りの集落の灯りがポツポツ見えるといった感じでした。はるか遠くから長崎神社のお囃子の音も聞こえてきましたし、当たり前のように千川上水で泳いだりしていました。その千川上水も暗渠(あんきょ)となってしまいました。今の千川駅前の賑わいを見ていると、隔世の感です。

 

外を飛びまわって遊ぶのは小学生の仕事ですが、私はそれだけでなく将棋にも熱中しておりました。その頃から勝負事に真剣に取り組む性質が備わっていたのか、めきめき上達して、後に年上の人にでも勝てるようになったのは良い思い出です。

 

 

  

長崎5丁目(昭和15年)

千川2丁目(昭和15年) 

 

                    

                                   千川バス(昭和15年)

 

【徴兵と帰国】

 

毎日が餃子、土産は缶詰

 

 昭和16年12月8日、日本軍による真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争が始まりました。一般庶民にもその影響は波及し、坂本家にも召集令状いわゆる赤紙が届き始めました。最初は次男、次に私、最後には跡継ぎである長男も招集されてしまいました。

 

 17歳の私が配属されたのは、中国の蘇州というところでした。幸いなことに部隊は前線ではなく、物資や燃料の補給など後方支援を主な任務とする兵站(へいたん)部隊でした。

 文字通り命がけで戦っている前線部隊とは裏腹に、蘇州では実戦がある訳も無く、いたって平和な毎日でした。上官からも可愛がってもらっていた私は、毎日の様に餃子を食べ、囲碁や麻雀に興じておりました。これが私の戦争体験のほぼすべてであり、実戦に駆り出されることもなく終戦を迎えました。

 

 

                   太平洋戦争 戦時中(左写真 出兵前、右写真 兵站部隊の仲間と)

 

終戦と同時に、中国大陸にいた兵士はもちろん一般国民も本土への引き上げが始まりました。多くの人々が語っているように旧満州からの引き上げは場所によっては熾烈を極め、たくさんの人が亡くなったり、命がけで脱出する羽目になったりしています。

 

 蘇州では、蒋介石率いる中国国民軍が日本兵の復員を優先的に行なったため、私も無事に日本に戻ることが出来ました。背中の雑嚢(ざつのう)の中には兵量(ひょうりょう)であった缶詰を、ギッシリと詰め込んでありました。

 

 帰国してみると、幸運なことに要町周辺は戦火を逃れており、昔ながらの懐かしい風景がそのまま残っておりました。帰って来られたんだなぁとホッとしたのも束の間、長男はシベリア抑留、次男は戦死という悲しい知らせが待ち受けていました。厳格な父は「長男が戻るまでは、三郎の帰還も祝ってはやれない」という態度を崩しませんでしたが、母は手放しの喜びようです。土産として持ち帰った缶詰が、さらに家族を喜ばせました。

 

 その後、長男がシベリアから無事に帰還するまで、私が代理として坂本家の留守を預かることになりました

 

高校時代(卒業アルバムより)

高校時代(写真中央)

 

【立教大学入学】

 

踊る青春・打ち込む青春

 

 戦争から帰った私に、大学進学を熱心に勧めたのは母親でした。ハイカラな面も持ち合わせている母は、「これからの時代は、英語が出来なければ駄目。大学に行って英語を勉強しなさい」と口説きます。私も「農家の三男が立身出世するには、教養を身につけるしかない」と、大学進学を決意しました。後から調べてみると、大学進学率は10%もなかった頃で、恵まれた環境に生まれた我が身の幸運に感謝しました。

 

立教大学時代(左・中央写真大学の構内)                       大学の仲間と飲み会(下段左から3番目)

 

 

立教大学での生活は想像以上に楽しいものでした。勉強ももちろん頑張りましたが、それ以上に熱中したのは社交ダンスと囲碁です。特に囲碁は、私にとって生涯の趣味となり、精進を重ねた結果、後年、日本棋院から六段の免状を頂戴しました。

 

 立教大学の思い出は楽しいものばかりで、今でもご機嫌な時は無意識に「♪セント・ポール、シャイン、シャイン~」と応援歌を口ずさんでしまいます。この学生生活こそが、本当の意味で我が世の春、青春時代でした。

 

立教大学時代(大学の仲間と海で青春を謳歌)

 

第2回

 

 

結核入院】

 

ストレプトマイシンと運命の人

 

 本当に楽しかった大学を卒業する頃に、坂本家にとって大きな悲劇が襲いかかりました。その当時、戦後の復興に身を削りながら努力を続けていた日本国民の間に、不治の病として恐れられていた結核が蔓延しておりました。

 

その結核によって姉が亡くなったのです。さらに不運は重なるもので、私自身も結核にかかってしまいました。茫然自失の中、江古田にあった国立療養所中野病院(現・国立国際医療研究センター) に入院することになりました。

 

入院中は絶対安静ということになっておりましたが、血気盛んな時代の私が大人しく安静にしている筈はありません。手術直前まで入院仲間と麻雀に明け暮れたり、看護婦さんと社交ダンスに興じたりしておりました。

 

入院中、あまりにも熱心に麻雀に取り組んだため体力を消耗して急遽、手術を延期するという事になってしまいました。体力回復を待っている間、結核の特効薬であるストレプトマイシンが入手可能となり、おかげで手術なしに完治することができました。我が身の強運には、本当に驚かされます。

 

知人たちは私のことを「天真爛漫(てんしんらんまん)」だとか「豪放磊落(ごうほうらいらく)」などと評してくれます。それは兵站の缶詰や入院中の麻雀事件など、逆境にも決してクサることなくポジティヴな姿勢を崩さない底力を認めてもらっているからでしょうか。そんな性格だとは恥ずかしくてとても自分では言えませんが、周りからそんな風に見られているのは、とても光栄なことです。

この入院ではストレプトマイシンのおかげで命拾いをしただけでなく、運命的な二人の人物との出会いがありました。一人は後に東信商事に入社して商売を支えてくれることになる小塚実(こづか みのる)氏。もう一人は、要町に住んでいる名家のご子息です。この出会いが、私の人生の転機となるのですから、万事塞翁が馬です。

 

 そのご子息は、要町周辺の大きな農家に生まれ、早稲田大学を卒業した地元の名士でした。同じ時期に入院した同世代ですから自然と仲良くなりました。生涯にわたって私の事を「さぶちゃん」と親しく呼んでくれました。入院中は家業の話や土地の事など、束の間のモラトリアム時間の中、二人はじっくりと話しをすることができ、それが固い信頼となりました。長い友情は、結核療養所からスタートしたのです。

 

闘病時代

 

闘病時代(仮装パーティー

 

 

【就職、そして起業へ】

 

さぶちゃんには、商才がある

 

 結核が完治し退院すると、私は有楽町にあった日本不動産という会社に就職しました。地代の集金業務が私の主な担当です。就職はしたものの、私は悩みを抱えていました。

大学を出て就職をしたが、結核療養のため同級生たちより一歩も二歩も出遅れています。

その上、自分が何をやりたいのか模索する毎日。集金の途中、日比谷公園などでベンチに座り、将来に対しての不安と焦燥を抱えたまま、漠然と「困ったなぁ」と溜息をつくばかりでした。

 

 思い余って懇意になったご子息に相談すると、私の悩みはいっぺんに吹き飛んでしまいました。

「さぶちゃん、俺が応援するから商売を始めてみないか?」

 

後になって聞いてみたところ、療養時代の時から「さぶちゃんには、商才がある」と思っていたようで、悩み相談をするうちにそれが確信に変わったということです。私自身も、思索を続けているうちに何かをはじめたい、自分の力を試したいと思うようになってきていましたので、彼の言葉が、まさに背中を押してくれた形になりました。

 

私は自分の会社を設立することを決意し、その準備を進めることになりました。

 

 起業するのならば、やはり坂本家の土地を活用しない手はない。そうは考えてみたものの、父信太郎は猛反対でした。質実剛健な父の性格と、楽天的な私の性格が相入れる訳もなく、父からしてみると私の提案自体が、甘いものだと感じたのも無理はありません。

そんな窮状を救ってくれたのが、またもご子息でした。最初の申し出以来、私の話すら聞いてもくれない父も、地元で絶大な信用を集めている彼の話ならば耳を傾けます。

絶大な信頼に基づいた彼の全面的な応援と、私自身の決意の固さから、父もついには承諾をしてくれることになり、ついに念願の会社設立を果たすことになりました。

 

    

       坂本本家前

坂本家の集まり(写真左から長男、社長、写真中央 部長) 

 

【会社設立、結婚、高度経済成長】 

 

新しいことがやりたい。そして東信商事設立。

 

 昭和30年に、祖父・菊次郎と父・信太郎、それぞれの一文字をもらって、会社名は「菊信商事」と命名しました。

当初の予定通り、坂本家の資産管理が主な業務です。

しかし、それだけでは物足りなくなってくるのが私の性格で、要町周辺でアパートやガレージの賃貸管理を手がけることになりました。

これは当時にすれば先駆的な業種です。私の生来の社交的で前向きな性格は、何か新しいことにチャレンジすることに躊躇がないばかりか、指を加えて見ていられないところがあります。

結核療養所で知り合った小塚氏に声をかけ、事業の手伝いをしてもらうことになりました。

 

 

菊信商事時代 創業当時(昭和35年5月末 会社横に新居、小鳩荘(アパート)完成)

 

その頃、友人の紹介で結婚することになった百合江は、9歳下ながらしっかりした女性でした。二人の新婚生活は、4畳半と3畳二間の小鳩荘という小さなアパートからスタートし、間もなく長男が誕生しました。

 

結婚そして長男誕生(左写真 結婚式、右写真 当時の要町通り)

 

菊信商事の事業は順調で、地元の人々にも徐々にその名が浸透していきました。

しかし、私のチャレンジ精神は、それだけでは満足しません。私の興味は、管理業務だけにとどまらず、賃貸業や売買業に移っていきました。

5年後、私は順調に育っていた菊信商事のすべての権利を兄・忠雄に譲渡することにしました。私自身はゼロからのスタートで、賃貸・売買という新しいフィールドに挑戦する意欲満々でした。

 

昭和35年に、東信商事を設立しました。坂本家の資産ではない物件を中心に扱い、事業の拡大を目指した、ピカピカの新会社です。

 

昭和35年といえば、時の総理大臣・池田勇人総理大臣が「所得倍増計画」が発表した年で、日本中が高度成長経済の波に乗り、要町周辺にも次々に家が建ち始めました。要町・千川という土地自体が、池袋にほど近い優良な住宅地であると評価され、どんどん発展を遂げていきます。それにつれて、周囲の農家も意識が変わり、次々に地主へと変わっていきました。

 

東信商事は、菊信商事での実績もあり、また農家である坂本家の三男が経営している不動産会社ということで、地元の方々から信頼を受けることができました。要町・千川の農家の方々が、気軽に会社に立ち寄ってくれて、よもやま話をする場として利用してくれました。そうした人たちも、そのうちに土地に関する相談を持ちかけてきたり、物件の管理を任されたり、地元の方のお陰で順調に発展していきました。

 

「日本は益々、成長する。今こそアパート経営をするチャンスだ」そう確信した私は、小学校の同級生から土地を借りて、初の自社賃貸物件である「第一東信荘」を建てました。昭和46年のことでした。

 

それをかわきりに「東信マンション」「東信コーポ」と次々に、自社賃貸物件を増やし、将来性のあるアパート経営に積極的に取り組んでいきました。それらの物件は、今でも東信商事の経営の基礎として位置づけられておりますし、私の新しい事好きの性格が良い方向に作用した成果であると自負しております。

 

家族写真(長女・次男誕生) 

懐かしのお風呂で記念撮影 

 

 

 

第3回

 

 

【バブル経済がやって来た】

 

みんなで稼いでみんなで使う 「遊べ!掴め!」

 

 経営は順風満帆で、千川に自社ビルを建てることも叶いました。昭和58年のことです。それまではバス中心の生活を余儀なくされていた千川にも、念願の地下鉄有楽町線が開通(池袋~成増)しました。幸運なことに本社ビルの地下に千川駅が出来ることになり、東信商事ビルは自然と駅前の一等地になりました。また世間では、俗にいうバブル経済の波が押し寄せて来ており、東信商事も好景気の恩恵に与りました

 

 

 

 

自社ビルの建設(現 東信ビル)

 

東信ビル 竣工パーティー

 

私は元来、お酒が好きで近所の地主さん達とよく呑みに行きました。単に呑むだけでなく、時には共同で仕事をしたり、情報交換をしたり、「みんなで稼いでみんなで使う」という姿勢で、楽しみながら仕事をしていました。時代は不動産に対して追い風で、かつてない利益を生み出し始めていました。こうして、我が人生のモットーである「よく遊び」「チャンスを掴む」を両立することが叶いました。

 

 千川駅に他の地主さんと共同で建てたビルに東京相銀行がテナントとして入居しました。バブル景気は停滞するどころか加速し、特に不動産業界は銀行からの融資攻勢に煽られて未曽有の好景気を迎えていました。東信商事にも東京相銀行をはじめとして、多くの銀行から融資の申し出を受け、土地や物件の売買を行いました。事実、買えば値上がりし、売れば何百万、何千万もの利益をあげることができました。達成感と手にした利益で、天が我々の味方をしている様な気分でした。

 

 道路に面した土地を手始めに仕入れて、その裏にある土地の所有者の家に足繁く通って売ってもらう。それから隣接する土地をひとつずつ手に入れて、まとまった広さにすれば利益が段違いに増える。私の趣味である囲碁の様に、戦略的に布石を打って徐々に領地広げていく感覚でした。時代の追い風を受けていたにもかかわらず、自分には商才があると勘違いをしていたことが、バブル経済の破綻時に大きな危機を招く結果になったのです。

 

バブル時代(地主さんと熱川温泉旅行)

 ロータリークラブの仲間とオーストラリア旅行

 

【バブル経済破綻す】

 

土地価格暴落、銀行の貸しはがし

 

 あまりの好景気に一抹の不安を感じることもありましたし、このまま際限もなく経済成長が続く訳もないという予感はありました。戦後、地価は一度も落ちたことはありません。けれど、バブル経済の破綻はあまりにも突然で、その暴落は予想をはるかに超える規模でした。

 

 買い進んでいた土地は未だに虫食い状態のままです。池袋で進めていたプロジェクトでは50坪の土地に対して立ち退き料その他込みで何億もつぎ込んでいました。中途半端なままで売ろうと思えば、わずか数千万円しか回収できません。そうかと言って、買い進め様にも銀行は手のひらを返して「返済して頂くならともかく、新たに融資するなどあり得ません」との返答で、資金調達もままならず、隣接の土地を買収する訳にもいきません。

 

 

 為す術も無い状態です。手も足も出ない。多額の借金に押しつぶされそうでした。ただ、最低限のリスクヘッジをしながら進めていたという自負もありました。長年にわたって頂いている管理業務を基本に、慎重に経営を続けてゆけば再起は可能だと信じるしかありません。悪ければ悪いなりの経営法があるはずです。頭の中で様々な考えが渾然一体となっています。平静を辛うじて保ちつつも、必死で踏ん張っていました。

 

頼りにしていた銀行から、想像もしていなかった言葉を投げつけられたのは、まさにそんな時でした。

その時期に融資を受けていた銀行のひとつが東京相互銀行でした。担当者は有無を言わさぬ口調で、借り入れ金を全額、しかも即日に返済するようにと迫ってきました。当時、流行語にもなっていた「貸し剥がし」です。後になって考えてみると、東京相互銀行自身が資金繰りに苦しみ、倒産の危機にあったのでしょう。銀行も必死だったのです。

 

 だからといって、はいそうですかと返済など出来る訳がありません。負債の圧迫によって経営状態は首の皮一枚でつながっているような有様。私自身はこの先、年老いてゆくのが避けようの無い運命です。打つ手がありません。もはやこれまでかとの諦念に囚われ始めてしまいました。

我が人生において私は、戦争と結核という二つの困難を乗り越えることができました。商売にしてもゼロから立ち上げたものです。またそれがゼロに戻るだけの話じゃないか…。八方塞がりの私は、そこまで弱気になっていたのでした。

 

東京相互銀行(倒産前

東京相互銀行跡地(現在

 

 

【ポスト・バブルの難局打開】

 

脳梗塞と救世主

 

 その頃、私の次男である哲也はすでに東信商事に入社をしておりました。大学を卒業した後、大手デベロッパーに入社して社会人経験を積んだ上でのUターンです。しかし正直いって私の目から見ていると、何だか頼りない存在であったのは事実です。気ままに旅行やスキーに行ってしまうのは困ったものだと思っていました。

 

無類のスキー好き!息子 哲也(ニュージーランド)

 

そうは言っても後継者問題を考える場合、すでに長男は歯科医として独立していたので、次男である哲也に任せる他はありません。それだからこそ、思い切って哲也に現在の会社の経営状態を打ち明けることにしました。将来は跡継ぎとして東信商事を任せるのですから、隠していても仕方ありません。

 

 私は哲也と共に、六本木にあった東京相互銀行の本社に赴きました。そこで彼は負債総額や銀行側の要求と初めて対峙することとなりました。話はあらかじめ耳に入れていたとはいえ、銀行側の態度を目の当たりにして哲也も相当、驚いたと思います。と同時に、銀行の理不尽な要求に対して食ってかかるかの如く大口論を展開し、逆に私を驚かせました。

 

「銀行は本気かな? 自宅を売ってでも返済しないと、最終手段にでるかな?」銀行から出ると哲也は尋ねてきました。

 

 「それならそれで仕方ないか…。でも、そうなったらお母さんが心配だ」私は辛うじて、そう答えるしかありませんでした。

 

 その夜、哲也は一睡も出来なかったようです。

 

 私が倒れたのは、そんなストレスも関係していたのかもしれません。ドクターストップを無視して大好きな煙草を手放さなかったのが直接の原因ではあるのですが。

 

 最初の脳梗塞は比較的軽い症状だったので、すぐに会社に復帰することが出来ましたが、実質的な経営はすべて哲也に託すしかありませんでした。私に出来ることは、財産を切り売りしながら必死で返済策を講じる事だけでした。銀行の強硬な姿勢は相変わらずで、こちらも負けずに粘り強い交渉を重ねました。そんな折に東京相互銀行が倒産を発表したのは、まさに青天の霹靂でした。

 

 問題はしばし先延ばしかとホッとしたのも束の間、東京相互銀行の経営権は外資系のローンスターが引き継ぐことが発表され、「東京スター銀行」という名称に変わりました。再開された交渉は、外資系だけあって理詰めで血も涙もないドライなものに変貌しました。期限が来たら一括で返済せよという要求は、契約書に記載されどうにもならないし、返済不能という事態に陥った場合は、自宅の差し押さえも真剣に覚悟しなければならない。

 病床の私に哲也は、「とても銀行員とは思えないよ。まさに虎の威を借る狐だな。」と怒り心頭でこぼしたこともありました。

 

 そんな苦悶の日々を送っていたある日、哲也から報告がありました。

「銀行と話をつけてきたよ。返済方法も詰めてきた」

それは私が想像もしていなかった言葉でした。いったいどうやって折り合いをつけたのか、私には不可能と思われた交渉を成し遂げた次男を、狐につままれた様な思いで眺めておりました。返済条件を確認した時、返済のピッチが速いのではないかと疑問を投げかけると、「大丈夫」という力強い返事が返ってきます。

 

私の知らない間に足繁く銀行に通っていた様でしたし、経営を任せてからも会社の売上はわずかばかりだが上昇するようになってきています。会社にとって哲也は、まさに救世主となったのです。

 

社員旅行(平成20年 箱根)

 

 

【創業50周年を迎えて】 

 

 2010年、東信商事が創業してから50周年を迎えることができました。

 

 支店を要町にオープンすることもでき、経営はより堅実なものとなりつつあります。東京スター銀行の債務も、東京三菱UFJ銀行に肩代わりをしてもらうことができました。バブル崩壊後の危機はなんとか脱したようです。嵐が去ってみると、我が東信商事は本当に多くのお客様やオーナー様に支えられていたのだと実感することができます。

 

 本当に有り難いことで、感謝の念に耐えません。

 

 こうして昔からの事を思い出してみると、様々な出来事が蘇ってまいります。

 

 何か大きな野望があって会社をはじめた訳ではありませんでした。家族を養えて、好きなお酒と囲碁を楽しめれば良かっただけです。現在のアゼリア通りも、私や友人たちが土地を提供して整備されたものです。生まれ育った土地に貢献できた事も大きな喜びです。

 

 後継者にも恵まれ、要町・千川でも有数な不動産業者と育てていただいた事は、東信商事を支えて下さった皆さまのお陰です。感謝の言葉をいくつ重ねても足りない程です。

 

 現在の東信商事にも、まだまだ課題は多いかもしれませんが、今後もご指導、ご鞭撻を賜れば幸いです。商売だけでなく、お客様の役に立ちながら地域に貢献し続ける会社であるという経営方針は、後継者である哲也にバトンを渡してあります。

 

 以上で、私の回顧録もお終いです。拙い文章を最後までお読みくださってありがとうございました。東信商事を、今後とも宜しくお願い申し上げます。

 

創立50周年パーティー (平成21年 社員一同)